成田緑夢選手パラリンピック銅メダル!父と歩んだ壮絶な競技人生とは?

平昌(ピョンチャン)冬季パラリンピックのスノーボードクロスで男子下肢障害の成田緑夢(ぐりむ)(24)選手が見事銅メダルを獲得しました。

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お世話になります。米国株投資に掛けるアラサー女子のベン子です。

成田緑夢選手がやりました!パラリンピックのスノーボード競技で日本選手がメダルを取るのは初めての快挙。予選を1位で通過したの成田選手は決勝の1回戦、準々決勝を順調に勝ち上がりましたが、準決勝で転倒。2014年ソチ大会で銅メダルのキース・ガベル選手(33)=米=に敗れましたが、3位決定戦では、ソチ大会金メダルのエバン・ストロング(31)=米=に競り勝ちました。素晴らしいの一言です。

しかし、今回の活躍の裏には父と歩んだ壮絶な物語があったと言います。気になりますよね。調べてみました。

成田緑夢(ぐりむ)さん。

「緑夢」という名前に、あれ?と思う人もいるかも知れませんね。緑夢さんは、父親の熱血指導で知られる「成田3兄弟」の末っ子、スノーボードで06年トリノ五輪に出場した童夢(どうむ)さん(31)、今井メロさん(29)の弟です。兄姉と同じく「当然のように」五輪を目指していた時に起きた練習中の大けが。競技人生が一変した緑夢さんを突き動かしたのは、SNSから届いた1通のメッセージだったと言います。

緑夢さんは、父親が子どもたちのために作ったスノーボードチーム「夢くらぶ」で、童夢さん、メロさんと一緒に1歳からスノーボードを始めました。大阪市の実家の屋上にはトランポリンがあり、空中での姿勢や感覚を磨くためにトランポリンを使っていました。

毎日飛び続けたトランポリンでは、高校2年のときに高校の全国大会で優勝し、12年のロンドン五輪は日本代表の最終選考まで残りました。さらに、その年の冬にはフリースタイルスキーを始め、すぐに日本代表に。13年3月には初出場の世界ジュニア大会で、ハーフパイプで優勝を果たします。冬季五輪への出場はまさに手の届くところに来ていました。

しかし、ある日それは突然希望から絶望へと変わってしまいます。

切断の可能性もあります

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世界ジュニア大会の1カ月後、いつものように自宅でトランポリンで練習していた緑夢さんは両足首にスキーの板の重さを想定した2.5キロずつの重りを付け、2回転宙返りで5メートルを飛ぶジャンプを1日に300回繰り返していました。これを聞いただけでも気が遠くなるくらいのハードトレーニングですよね。

その練習のさなか、緑夢さんは「飛んだ瞬間に左足が滑った」っと思ったそうです。しかし、同時に体勢が崩れても、「背中から着地すれば大丈夫」とも思ったというのです。しかし、その時は重りの付いた左足が体の回転についてこなかったのです。前屈の体勢で落下し、左肩が左ひざに強打。「バキッ」という大きな音とともにひざが逆に曲がりました。

病院に救急搬送。診断結果は前十字靱帯(じんたい)、後十字靱帯の断裂に半月板の損傷。動脈も破裂し、内出血が広がっていたといいます。ご両親に、医師は

「歩けるようになる可能性は20%です」

「切断の可能性もあります」そう告げたと言います。

病院のベッドでたくさんの管につながれ、絶えず激痛に襲われたまま身動きのとれない状態。緑夢さんは両親に「僕にリアルな症状を教えないで」とお願いし、「きっと少し脱臼して、少し骨が折れただけ」と自分に言い聞かせていたと言います。入院は半年におよび、手術は4度。「足は切らないでほしい」と父親が医師に懇願していたと、後で知ったと言います。しかし、結果的に腓骨(ひこつ)神経まひで、左ひざから下の感覚を失う障害が残ってしまうのです。

一通のSNSのメッセージが彼を突き動かしてゆく

退院から半年もたたないある日のこと、父親が突然「スキーに行くぞ」言い出したと言います。左足を引きずって30分も歩けば、30分は氷水で冷やさなければ腫れも痛みも引かない状態のころでした。痛みに耐えながらスキー靴を履き、夏にはウェイクボードも再開しました。普通、まだ完全に傷が癒えていない状態で、スキー練習を強制する。並みの親なら考えません!それを平気でやってしまうところが、成田家の父なのですが、後に緑夢さんは「あの時無理やりにでも、父にスキーをさせられていなかったら、おそらく今自分は競技者として生きてはいなかったと思います。今では父に感謝しています」と言っています。

そんな時、彼に届いた1通のSNSのメッセージに心が揺さぶられたといいます。「けがをしても、頑張っている緑夢君に勇気をもらった」。障害のある人からのメッセージでした。

「自分がスポーツをすることで、誰かを励ませるかもしれない」

緑夢さんはこの時初めて、スポーツをする意味を考えるようになったと言います。それならば、障害者スポーツの頂点であるパラリンピックを目指そう。僕が結果を出せば、障害のある人やけがで引退を迫られたスポーツ選手たちの夢や希望になれるかもしれない、そう思ったと言います。

昨年11月から本格的にスノーボードを始め、初出場のワールドカップでは4位入賞。上位とは大きな差がありました。

「みんな本当に障害があるのか?」

競技レベルの高さに、逆に闘争心に火が付いたと言います。ベン子もピョンチャンパラリンピックの緑夢さんの滑りをテレビで見ましたが、とても膝から下が麻痺している人の滑りには見えませんでした。むしろ「平昌オリンピックのスノーボード競技と変わらないレベル」と思いました。

緑夢さんは「昔の感覚で滑れば転んでしまいます。それで義足や同じような障害のある選手に話を聞いては、ゲレンデで練習を繰り返しました。ターンの時に踏ん張りの効かない左足をカバーするために、右手を大きく前に出したり、左手でウェアのパンツをつかんだりしてバランスをとり、コツをつかんでいきました」となりふり構わない姿勢でスノーボードに邁進してゆきます。

そして結果はついてきます。今年1月の北米選手権と2回のワールドカップは3連勝。2月には、世界選手権でも3位に入りました。「五輪もパラリンピックも関係ない。僕の中では同じスポーツだと思う。けがをして、僕がスポーツをすることで誰かの励みになれることを知ったから、パラリンピックに出場して、夢や希望を与えられる選手になりたい」と話ていました。そして今回見事な銅メダル獲得。それも日本人初のスノーボードでのメダリストとなりました。まさに有言実行です。

ベン子は、オリンピック好きで毎回欠かさず見ているのですが、正直、パラリンピックはどうしても盛り上がりにもうひとつ掛ける感じがありました。しかし、今回、緑夢さんの銅メダル獲得までのストーリーを知ってから、競技をみると全く違った景色が見えたような気がしてなりません。今後は、パラリンピックも大いに感動して見ることができそうです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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